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心の癒しと夢、瞑想、精神世界について、です

2006年05月:夢と癒しと瞑想ノート

TOPへ-夢と瞑想、気づきと癒し、精神世界の道程

瞑想に興味を持ってから20年超。 その羊腸の道の風景を、ところどころご紹介していきます。 道を求める人へ、何かの参考になれば幸いです。 書き込みの日付は、もともとの日記の日付です。

無ということ

禅などで、よく「無」ということが強調される。

禅の無については、よく分からないが、受信の瞑想では無を意識する。
まず、考えると、経験できない。
思考は、それ自体にエネルギーがあり、また、場所も取る。
例えば、何かを夢中になって考えていれば、(考え事をしていれば)、近くで音がしても気づかない。

瞑想中もそれは同じことなのだ。

だから、メッセージを受け取りたければ、考え事は禁物。考えない、という思考も、むろん不要だけど、こだわることもない。

こだわらずに流せば、自然に考えなくなる。
考えなければ、受け取れる。受け取れるということは、すなわち経験が出来るということ。

経験はまた実感を伴う。・・・こうすると瞑想は、考える事ではなく、経験になってくる。

一方で、求める事は必要で、ごく軽いエネルギーは、とどめておく必要もある。自分がなくなっても経験できない。何を経験したいのか、方向性を決める責任は、まず自分にある。(自分って何?というのもあるけど)

この辺のバランスはとても微妙で面白い。

無というのは、僕にとってはむしろ空間。だから空なのかも知れない。
空を保つと、そこにじわじわと染み出てくるものがある。

お、来た来た。・・・そんな感じ。(^^)
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  1. 2006/05/17(水) 00:00:13|
  2. 瞑想の方法といったこと・雑感|
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受信の瞑想

今日は瞑想のテーマを決めず、何も求めず、ただ心を空っぽにして、教えを受けるという心的態度を保って。
守護霊様というか、導き手に、「何か有ったら、おっしゃってください」と。
つまり、何か特定のことについて教えてくれ、ではなく。

むろん、瞑想の中では、その意識も捨てて。・・・というか、心的態度だけは保ちつつ空っぽにして。

すると、今の仕事、プロジェクトが心に浮かんで大丈夫だよという暖かい波動、気が流れてきた。今は、種まきの時、予定通りだと。
言葉としてではなく、イメージ・観念?として。

軌道修正は、必要なさそうだ。(^^)
  1. 2006/05/07(日) 00:03:19|
  2. 瞑想の記録|
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結界のこと

森の瞑想といった瞑想は、感受性を高める訓練。
こうした感受性を高める訓練には、並行して、感受性を閉じる訓練が必要だと感じている。
ちょっとそのことを書いてみよう。

結界といえば、おどろおどろしいが、別に大した話をするわけではない。ごく身近な生活の知恵についての話だ。

例えば、人でごった返したバーゲン売り場にいるとする。みんな殺気だってイライラしながら、買い物をしている。

そんなとき、普段、周りの空気を感じ取る訓練をしていたら、まともに、イライラした空気を浴びてしまうこととなる。
その必要もないのに、自分も感応してイライラとしてしまうだろう。
多くの場合、「気がついたらイライラしていた」となる。こうしたことは、誰でも経験することでもある。

さて、これでは身が持たない。八つ当たりをしては、周りの家族とかにも申し訳ない。

だから、普段から、閉じることを、どこかで意識しておく必要がある。
そして、あれ?と思ったら、自分の周りに結界を張る。この例で言えば、自分がイライラする前に、だ。

特に結界を作るノウハウ、というほどのものがあるわけではないが、僕の場合は、自分の周りに適当に光の壁かなんかをイメージして、結界を意識の中で、作ってしまう。(気分によっては、次元の断層なんてものをイメージすることもある。)

たった、これだけのことなのだけど、それで、ずいぶんと、変わって来る。

  1. 2006/05/06(土) 17:41:46|
  2. 瞑想の方法といったこと・雑感|
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言葉と体験と

瞑想をしていて、メッセージを受け取ろうとするとき、言葉で聞こうとすることは、僕には、違和感がある。
言葉…これは、恐ろしく限定的なコミュニケーションの方法なのだ。

例えば、「愛が大事」という言葉があったとしてもその意味することは千差万別だろう。

はじめから、言葉でメッセ―ジを受け取ろうとすると、コミュニケーションのパイプを著しく狭める事となってしまう。

瞑想の世界は、体験。
限定しなければ、全体験として、感じることが出来る。言葉にはならない、複雑な感情の流れ、広がりも、感じる事が出来る。

言葉に体験を限定しないとき、その世界は、ずうっと広がる。

それにしても、この複雑な感情の流れ。・・・これは何なんだろう?
まだまだ見えない。

どこから来るのか。どこへ行くのか・・・

  1. 2006/05/05(金) 23:10:54|
  2. 思うこと|
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意識の量

「受身・感じる瞑想」をしていて、難しいと思うのは、どこまでセンサーとしての意識・自分を残すか、ということ。

物を受け取るには、センサーが必要で、これは瞑想でも変わらない。
受け取る自分がなくなると、それは深い眠りについたようなもので、感じることが出来ない。受け取ることができない。
さらには体験も出来ない。

一方で、自分が強いと、センサーにならない。例えば、自分が光を放ってしまうと、感じ取る筈の光を消してしまう。
センサーは、出来るだけ、繊細で、感じやすい必要がある。つまり、エネルギーを落としておく必要がある。

この辺のバランスが、結構、難しい。



  1. 2006/05/05(金) 22:59:50|
  2. 瞑想の方法といったこと・雑感|
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