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心の癒しと夢、瞑想、精神世界について、です

2005年12月:夢と癒しと瞑想ノート

TOPへ-夢と瞑想、気づきと癒し、精神世界の道程

瞑想に興味を持ってから20年超。 その羊腸の道の風景を、ところどころご紹介していきます。 道を求める人へ、何かの参考になれば幸いです。 書き込みの日付は、もともとの日記の日付です。

悟りを開くということ

宗教には、多くの場合、弊害というか、ネガティブな面がつきまとう。
それは必ずしも、宗教の責任というのではなく、未熟な人間が教えを誤解することもあるだろう。

仏教に関して、そんなネガティブさを感じるのは、「悟りを開く」といった考え方に関連して、だ。
悟りを開くことを目標に修行し、そして、悟りを開けば、仏になり、もう、全部、卒業!

どうもそんな誤解、思い込みは無いだろうか?

もう二十数年、瞑想を続けてきて、思うのは、この道は永遠に続くという事。終わりがあるとは思えない。
むろん、瞑想を続けていれば、気づく事は山のようにある。様々な実感を得る。そうした無数の気づきの中には、自分にとって、とても大切なものもある。瞑想の結果、人生は変わるし、時にそれは劇的でもある。

しかしながら、はい、卒業、と思ったことは一度も無い。・・・とんでもない。

お釈迦様のことは知らず、一般の人間が、たった7日間、瞑想をしたからといって、卒業できるとは思えない。
むろん、がんばれば、それなりのことは有るだろう。だけど、たかだか1週間の修行で、突然、凡人が全知全能の存在になれるとは思えない。
カップヌードルではないのだから。




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  1. 2005/12/24(土) 13:23:58|
  2. 瞑想の方法といったこと・雑感|
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土の瞑想

土の瞑想を行った。

土… それは土台。生命の源。不動の大地。
不動でありながら、練成がある。熟成がある。

そこには、火にも水にも空にもない、パワフルな低周波の波動がある。
-そのエネルギーを自分の中へ。
  1. 2005/12/23(金) 22:22:16|
  2. 瞑想の記録|
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枠を外せない

瞑想をしていて、ふっと頼りなく感じることがある。
枠が外れるとでも言おうか。
その瞬間に大きな感情が流れる。

内なる神といっても、―神というほど大げさな言葉ではなくても、ハイアーセルフとか、高次元の魂といっても、そんな大きな存在を身近に感じる時、冷静ではいられない。

瞑想のさなかに、動揺し心が揺れ、僕はただ歯を食いしばる。
ああ、まだこの枠が外れない・・・
  1. 2005/12/19(月) 22:42:15|
  2. 瞑想の記録|
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感謝の夢

ただひたすらに感謝しているという変わった夢を見た。
それがとても強い感情。
ありがとう、という激情。

相手は肉親。
変な話、身近な家族というのは、身近すぎて、その愛をも忘れていたりする。

例えば、自分を心配してくれている親がいても、「ああ、僕は孤独だ」などと絶望して。「友達が一人もいない」なんて。

このごろ、またよく夢が教えてくれる。
  1. 2005/12/08(木) 09:43:51|
  2. 夢日記|
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嵐と洪水の夢

数日前の夢。

僕は用事があって、ビルの最上階にあるオフィスへ行こうとしている。
エレベーターへ乗る。
もう一人は外人さん。彼は24階ぐらいで降りる。

エレベーターのボタンは35階まである。35階が目的地。
そう思って、そこを押すと、そこは屋上という表示。
そして、外は嵐。
屋上に出てしまったら、風に吹き飛ばされるかも知れない。
34階が目的地だったか?
どうしよう? どうしよう?

しばらくすると、別の夢となった。
真っ直ぐなハイウェイを車で走っている。

道が突然、洪水となって、僕は車ごと水の中へ。辺り一面、車を水に飲み込まれた人たち。
僕は、車を失うのが惜しくて、ちょうどそこにいた友人に頼んで車を引き上げようとしている。

・・・この二つの夢を見て、数日、夢の意味を考えていた。
分かった。

僕は、今のプロジェクトを急ぎすぎていた。
僕のペースで、ゆっくりでいいのだ。もし、急げば、それは失敗へとつながる。

・・・はは。守られてるな。(^^)
  1. 2005/12/04(日) 20:46:30|
  2. 夢日記|
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霊能力者のアドバイスについて

霊能力者という人たちがいる。

そのアドバイスを受けることも有るだろう。アドバイスを受ける場合、様々な、受ける側の責任・注意点がある。

強調したいことの一つに、「自己責任」というものがある。
アドバイスをどう解釈するか、どう実行するかしないか、これは自己責任なのだ。

逆にいえば、霊能力によるアドバイスには、責任の所在が無い。
これが、霊能力のアドバイスの最大の特徴なのだ。

何を言っているか、お分かりだろうか?

霊能力者は、霊界の誰かからの言葉を伝える。つまりは電話機のようなものに過ぎない。

アドバイスの結果、何が起きようと、電話機の責任を問えるだろうか?
むろん、問えない。
それを問う事は、霊能力者に能力以上のものを要求することとなる。
霊能力者は神ではないのだ。

繰り返そう。霊能力者は、電話機にすぎない。どんなアドバイスをもらおうと、そして、その結果どうなろうと、霊能力者の責任は問えない。

責任があるとすれば、それは霊界の誰かだが、そもそも悪霊だが、守護霊だが、天使だか、彼らの責任をどう問えるというのか?

この自己責任の原則は、霊能力者のアドバイスに限らず、どんな形ででも、霊界のアドバイスを受ける場合、大変に重要だ。

逆にいえば、霊能力者の側も、こうした自己責任の原則をわきまえている相手以外に、不用意にアドバイスすることは、それなりの危険を伴う事を覚悟して欲しい。
見えればつい教えたくなる。その人情、親切心は分かるが、それだけでは、自分を無防備に傷つけてしまうこともあるだろう。

話は飛ぶが、ここから審神(さにわ)という必要性が生まれる。
巫女とさにわ。・・・ということだ。(^^)
  1. 2005/12/02(金) 10:46:14|
  2. 思うこと|
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イメージの現実化

ここのところ、現実を探る瞑想を続けている。

よくイメージを現実化するというけれど、現実でなければイメージできないというのが、むしろ実感。

イメージは作る物ではなく、現れるもの。感じるもの。

だから、僕の感覚では、「現実を探る」になる。
むろん、現実といっても、物質世界に限っているわけではない。
物質世界の鋳型である(霊的な?)現実を探るということ。

鋳型である霊的な現実を探り当てたとき、イメージを見ることができる。(イメージを見る、というよりは、そのものを体験するといった方が、正確)

そんなことで、今、自分が関わっているプロジェクトの未来、鋳型の現実を探っている。それを見つけるところは、自己責任だろう。

少しずつ、探り当てている。・・・というところ。
  1. 2005/12/01(木) 09:56:11|
  2. 瞑想の記録|
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