宗教には、多くの場合、弊害というか、ネガティブな面がつきまとう。
それは必ずしも、宗教の責任というのではなく、未熟な人間が教えを誤解することもあるだろう。
仏教に関して、そんなネガティブさを感じるのは、「悟りを開く」といった考え方に関連して、だ。
悟りを開くことを目標に修行し、そして、悟りを開けば、仏になり、もう、全部、卒業!
どうもそんな誤解、思い込みは無いだろうか?
もう二十数年、瞑想を続けてきて、思うのは、この道は永遠に続くという事。終わりがあるとは思えない。
むろん、瞑想を続けていれば、気づく事は山のようにある。様々な実感を得る。そうした無数の気づきの中には、自分にとって、とても大切なものもある。瞑想の結果、人生は変わるし、時にそれは劇的でもある。
しかしながら、はい、卒業、と思ったことは一度も無い。・・・とんでもない。
お釈迦様のことは知らず、一般の人間が、たった7日間、瞑想をしたからといって、卒業できるとは思えない。
むろん、がんばれば、それなりのことは有るだろう。だけど、たかだか1週間の修行で、突然、凡人が全知全能の存在になれるとは思えない。
カップヌードルではないのだから。
スポンサーサイト
- 2005/12/24(土) 13:23:58|
- 瞑想の方法といったこと・雑感|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
土の瞑想を行った。
土… それは土台。生命の源。不動の大地。
不動でありながら、練成がある。熟成がある。
そこには、火にも水にも空にもない、パワフルな低周波の波動がある。
-そのエネルギーを自分の中へ。
- 2005/12/23(金) 22:22:16|
- 瞑想の記録|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
瞑想をしていて、ふっと頼りなく感じることがある。
枠が外れるとでも言おうか。
その瞬間に大きな感情が流れる。
内なる神といっても、―神というほど大げさな言葉ではなくても、ハイアーセルフとか、高次元の魂といっても、そんな大きな存在を身近に感じる時、冷静ではいられない。
瞑想のさなかに、動揺し心が揺れ、僕はただ歯を食いしばる。
ああ、まだこの枠が外れない・・・
- 2005/12/19(月) 22:42:15|
- 瞑想の記録|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
ただひたすらに感謝しているという変わった夢を見た。
それがとても強い感情。
ありがとう、という激情。
相手は肉親。
変な話、身近な家族というのは、身近すぎて、その愛をも忘れていたりする。
例えば、自分を心配してくれている親がいても、「ああ、僕は孤独だ」などと絶望して。「友達が一人もいない」なんて。
このごろ、またよく夢が教えてくれる。
- 2005/12/08(木) 09:43:51|
- 夢日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
数日前の夢。
僕は用事があって、ビルの最上階にあるオフィスへ行こうとしている。
エレベーターへ乗る。
もう一人は外人さん。彼は24階ぐらいで降りる。
エレベーターのボタンは35階まである。35階が目的地。
そう思って、そこを押すと、そこは屋上という表示。
そして、外は嵐。
屋上に出てしまったら、風に吹き飛ばされるかも知れない。
34階が目的地だったか?
どうしよう? どうしよう?
しばらくすると、別の夢となった。
真っ直ぐなハイウェイを車で走っている。
道が突然、洪水となって、僕は車ごと水の中へ。辺り一面、車を水に飲み込まれた人たち。
僕は、車を失うのが惜しくて、ちょうどそこにいた友人に頼んで車を引き上げようとしている。
・・・この二つの夢を見て、数日、夢の意味を考えていた。
分かった。
僕は、今のプロジェクトを急ぎすぎていた。
僕のペースで、ゆっくりでいいのだ。もし、急げば、それは失敗へとつながる。
・・・はは。守られてるな。(^^)
- 2005/12/04(日) 20:46:30|
- 夢日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
霊能力者という人たちがいる。
そのアドバイスを受けることも有るだろう。アドバイスを受ける場合、様々な、受ける側の責任・注意点がある。
強調したいことの一つに、「自己責任」というものがある。
アドバイスをどう解釈するか、どう実行するかしないか、これは自己責任なのだ。
逆にいえば、霊能力によるアドバイスには、責任の所在が無い。
これが、霊能力のアドバイスの最大の特徴なのだ。
何を言っているか、お分かりだろうか?
霊能力者は、霊界の誰かからの言葉を伝える。つまりは電話機のようなものに過ぎない。
アドバイスの結果、何が起きようと、電話機の責任を問えるだろうか?
むろん、問えない。
それを問う事は、霊能力者に能力以上のものを要求することとなる。
霊能力者は神ではないのだ。
繰り返そう。霊能力者は、電話機にすぎない。どんなアドバイスをもらおうと、そして、その結果どうなろうと、霊能力者の責任は問えない。
責任があるとすれば、それは霊界の誰かだが、そもそも悪霊だが、守護霊だが、天使だか、彼らの責任をどう問えるというのか?
この自己責任の原則は、霊能力者のアドバイスに限らず、どんな形ででも、霊界のアドバイスを受ける場合、大変に重要だ。
逆にいえば、霊能力者の側も、こうした自己責任の原則をわきまえている相手以外に、不用意にアドバイスすることは、それなりの危険を伴う事を覚悟して欲しい。
見えればつい教えたくなる。その人情、親切心は分かるが、それだけでは、自分を無防備に傷つけてしまうこともあるだろう。
話は飛ぶが、ここから審神(さにわ)という必要性が生まれる。
巫女とさにわ。・・・ということだ。(^^)
- 2005/12/02(金) 10:46:14|
- 思うこと|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
ここのところ、現実を探る瞑想を続けている。
よくイメージを現実化するというけれど、現実でなければイメージできないというのが、むしろ実感。
イメージは作る物ではなく、現れるもの。感じるもの。
だから、僕の感覚では、「現実を探る」になる。
むろん、現実といっても、物質世界に限っているわけではない。
物質世界の鋳型である(霊的な?)現実を探るということ。
鋳型である霊的な現実を探り当てたとき、イメージを見ることができる。(イメージを見る、というよりは、そのものを体験するといった方が、正確)
そんなことで、今、自分が関わっているプロジェクトの未来、鋳型の現実を探っている。それを見つけるところは、自己責任だろう。
少しずつ、探り当てている。・・・というところ。
- 2005/12/01(木) 09:56:11|
- 瞑想の記録|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0