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心の癒しと夢、瞑想、精神世界について、です

2002年07月:夢と癒しと瞑想ノート

TOPへ-夢と瞑想、気づきと癒し、精神世界の道程

瞑想に興味を持ってから20年超。 その羊腸の道の風景を、ところどころご紹介していきます。 道を求める人へ、何かの参考になれば幸いです。 書き込みの日付は、もともとの日記の日付です。

炎で自分を包む

炎で自分を包むことに関して。

まず、目の前の炎を見て、それを感じる。波動とか、本質?を。それから、自分の身を、その炎が包んでいると決める(!)。これは、ただ決めるだけ。

そして、あとは、自分を包んでいる炎を感じようとする。そこにすでに炎は有ることに決めてしまっているので、僕が集中することは、感じることのみ。こんな感じ。…このプロセスが分かってきた。

暖かさもかなり感じる。ただ、まだ炎の中で、本当にリラックスしていない、と感じている。まだ、炎と一体化まで行ってはいない。

…それにしても、毎日、熱心に瞑想をしているので、随分と進歩している実感あり。

参考エントリー
炎の瞑想
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  1. 2002/07/31(水) 07:37:41|
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額をつける

今日、面白かったのは、ハイアーセルフとコンタクトを意識したところ、自分と額と額をくっつけたこと。
―それから、光りの自分と同期していった感じ。
自分が座標軸の0に位置しているという自覚の中で、とても自然に出来たのだけど、結構、興奮、意識してしまい、その後、ずれてしまった。


自分が、宇宙の中心であることを意識。だから、全て、そっちから動け、と。
今までのビリーフシステムと、新しいビリーフシステムの間の、緊張関係かな? 

自分が宇宙の中心、もしくは宇宙であること。物質世界が従。時間も距離も幻想であること。―これらのことを、少しずつ、実感しているところか。


炎に包まれることに関しては、波動を意識したなあ。炎を見ていて、その炎をより感じようとすると、イメージの中で、炎をこちらへ寄せて(自分は動かず)、炎を自分の周りに置く。
それを想像しているとき、今、見ている炎と同じ波動だと、自分の周りの炎は、見ている炎と、同一の炎と感じる。

世界が、そもそも幻想であることを前提とすると、いくらでも矛盾してよいのだ。目でみながら、周りにおいて、同時に、心の目で、周りに見る。少しもおかしくは無いわけだ。

  1. 2002/07/28(日) 06:57:53|
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座標と体験

瞑想、昨日、今日と。


自分の座標軸を0ということは、つまり、真っ直ぐに体験する、ということ。「僕イメージ」が経験するのではなく、本物の僕、宇宙の中心の僕が、体験する、ということ。
いわば、距離が近くなる感じ。


例えば、過去生を思い出しても、空を飛ぶイメージで遊ぶときも、想像の僕イメージが何かをしていて、それを本物僕が見ている、というのではなくて、本物僕が、まさに、今、ここで、体験するということ。

これは、痛みを痛みとして経験するということでもある。―だから、怖いこと。


でも、それだけ感覚がシャープに研ぎ覚まされる。つまりは、感覚の次元が変わる。
僕イメージの間接経験と、本物僕の経験では、全く、違う筈。


想像の世界で、炎が身を包むと思うとき、本物僕で、それを経験しようとすると、そこの感覚のシャープさは、本物の体験以上かも、と思ったり。ある意味で、より純粋な経験なのかも知れない。物質の炎ではなく、炎のエッセンスを体験するという意味で。


なんだか、自分の感覚・神経が眠っているように、感じる。鈍くて、まさに眠っているように。これを起こす、という作業をしているのかも。


経験のシャープさが増す。鈍さで、身を守っていた・保護していたところから、卒業して。うむむむ…。おもろいなあ。

  1. 2002/07/26(金) 06:41:20|
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座標軸を動かさない

昨日、今日の瞑想では、炎で包まれる、をヒントに。

今日、座標軸を動かさないことの重要性が分かったように思った。呼吸とも関連するけど。

動くのは、周りの世界なのだ。呼吸に乗って動くのは、周りの世界、位置・距離であり、時間である。
見手としての僕は、動かない。不動なのだ。時間も場所も、常に今、ここ。夢の世界にいても今、ここ。その自分を炎で包む。

従って、過去生の自分の世界中を旅したけれど、やはり今、ここにいる。見手としての僕である事実は変わらない。

記憶が移動する。記憶の中を僕が移動するのではなく、僕の周りを記憶が移動する。

自分が不動であることを前提とすると、感受性が高まると思う。

自分が動くと思うと、それはイメージへの集中となり、イメージの自分は自分ではないので、一切、感受性をそれ自身は持たない。だから、自分は不動。感受性をそれで保てる。

  1. 2002/07/17(水) 09:57:16|
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炎と一体になる瞑想をずうっと。

そこはかとない悲しみ。それを追いかけると、寒寒とした心。凍りついたような。愛が全く無いような。

それを光りで癒す。気持ちよかった。


それから今日は日中、森の瞑想もやった。

素直に認識できるように。偏見を捨てて、まず感じるように。勇敢に。心を光りで満たして。

参考エントリー
炎の瞑想
森の瞑想
  1. 2002/07/14(日) 09:52:26|
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忘れ物の夢


ここしばらく、忘れ物の夢を見る。

今日は、名刺。僕が家で寝ていると、大勢のビジネスマンが入ってくる。僕に会いに来たとのこと。

僕は、自分の名刺を出そうとするが、名刺が見つからない。名刺入れが見つかって、その中にあるのを確認するのだが、出そうとすると、名刺入れの中の、僕の名刺が見つからない。
ようやく見つけると、印刷されていない。「ちょっとお待ちください。確かに、名刺は有るんです」僕は、パニクってそういって探すが、名刺が見つからない。

…前は靴だったりしたけど。先日見た夢では、宝塚か何かの公演を見ていて、幕間にトイレにいって、トイレがいっぱいで、芝居が終わってしまったというものだったけど。

何かを探して、見つからない。焦る気持ち。なんなんだろう?

  1. 2002/07/10(水) 11:53:02|
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光る

今日はなかなか億劫で瞑想を始めるのをぐずぐずしていた。

さて、今日、面白かったのは、足の先から光らしていったこと。今まで心、体を明るく意識することはあったけど、光るという感覚は初めてだった。

あ、そういえば、その前に、暗いものを出した。蠍を感じた。

自分がトラウマの解消なりの瞑想をしていて、爬虫類や悪霊になったと感じたことは何度もあるけど、蠍というのは初めてだったみたい。

ろうそくの炎の瞑想は、パワフルだよね。
もう一つ。呼吸を横にすることで、実際、横には流せず、その部分、ずれてトランスが深まる感覚。時間軸をズラスことにも使えるのだろうけど、それはまだうまく出来無い。

自分の心が自然に光れば、進む事ができる。

相手の心に寄り添い、相手の立場で闇を感じて。今のままでは、闇を深くしてしまう。癒しの代わりに、闇を深くしても仕方ない。

  1. 2002/07/03(水) 08:37:03|
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