今日は、炎の瞑想ではなく、飛び石の瞑想を訓練。
はじめは、仕事のアイデアばかりが頭を駆け巡って。
石の上を飛ぶと、後ろ髪を引かれるというか、ぐいっと後方へ引き戻す力が働く。
その力に逆らわず、その力の本質を味わって。
そうこうするうちに、ただ飛ぶだけでは無駄ということも分かってきた。
無理に飛んでも、
そもそも無理に上に登っても、自分がレディでなければ、本当にその気持ちが無ければ、そこにたどりつけない。
これはとても時間をかけて上がるもの。…そんな実感がわいてきた。
自然に飛べるのかどうか。自分を分裂させずに、飛べるのか。
自然に上に浮くのか。
無理な向上心は、決して続かない。無理な道徳教育が、社会問題を引き起こすように。無理に自分を上だと思っても、本当の自分はそれを嘘だと知っている。個人の心も社会もホログラムとなっているだけ。
だから、等身大の自分がゆっくりと飛んでみる。自然に・・・
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歴史・道徳教育や社会問題の罠を描いた絵本―教育マシン
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- 2001/12/08(土) 07:49:08|
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瞑想は、まあまあ深く入れた。まだ理性を失いきれないけど。。。
理性を手放した所で、無意識の領域へ入れる。
まだ、その度胸が無い。信じきるだけのものがない。
さて、炎の瞑想は、物質世界との接点があって、とても難しいけれど、挑戦する価値があると感じている。
今日、瞑想をしていて「これが信頼して任せるという意味なのかなあ」と思う瞬間があった。
少しでも肩に力が入って、緊張しては駄目。
かといって、もちろん、「求める」のはこちらの責任。
求めるけど、それを得ようと緊張するのではなくて、求めて、そしてそれが得られると信じきって、お任せすること。
信じきろうとすると、かなりの情動反応があった。癒しへと向かう情動反応でもある。
集中を続けることに限界を覚えもする。
信じきれない自分。信じていない部分の恐怖。
目を閉じて、外界の世界を感じるとき、外界の世界との境界線がある。その境界線に不信があるのかな?
それとも不信が境界線を生むのかな?
外界、自分を囲む物は、ハイアーセルフそのものなのか? 外界の世界を信じきること。そこに鍵があるのだろうか?
不信は、分裂を生み平和を切り裂き、戦争を生む。―心も同じだ。
信じようとして、緊張し、その緊張を解き、を何回となく繰り返す。
いわば延々と繰り返す平和達成の努力か。そして、平和への努力をこなし、呼吸を炎に向けたときに、自然な炎との一体感…
この感覚。少しずつでは有るけれど・・・
1年以上、炎の瞑想を練習し、苦労して、このごろ少しずつだけど、炎の瞑想が見えてきたのかもしれない。
キイワードはやはり、全託かな?
リンク世界平和を願う方への手紙―反戦と平和の運動
- 2001/12/03(月) 16:33:36|
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